子供達の自主性を育てよう。 (1993年)
1.
「這えば立て、立てば歩めの親心」とか「目に入れても痛くない」等々、親が子を愛しみ、成長を楽しみ幸せを願う気持ちは、古今東西変わりないものであります。
我が国では、子供の育て方、関わり方が最近著しく変化しています。
我国では、子供は大切にされ、子供天国です。外国のジャーナリストが日本には「お子様というお化けがいる」と書いているそうでが、本当に子供にとって幸せなのでしょうか。
子供達のまわりには、物があり余っています。その為、物が不足してどうしようと考えたり(これが、実は教育上非常に大切に大切なのですが、物を作る喜ぴがなくなっています)
本来、自分で考え、工夫する遊ぴまでが規格され、大量生産されてお金と引換えに手に入れられるようになり、親子の関係までも自動販売機になりつつあるように思う。
そのような経済優先の社会の中にあって、私達の幼稚園では自然に恵まれた遊び場で、友達との遊びの中で「これ何?」「どうして?」と子供の心に疑問をもたせて、自ら解決していく生活を援助したいと考えています。
2. 家庭の形態や機能も幼児の自主性を育む障害になっています。
以前は年寄りから子供まで一つの家に住んで、一家が生産に従事し、子供は子供なりに手伝っていました。
ところが、産業化が進んで生産は工場に集中し、生産をする家族の姿を見るのは数少なくなってしまいました。
又、家族の人達の社会活動における多くの面を捕らえることも少なくなりました。
又、以前は宗教的なこと(祖先をまつる)をはじめ、すべての行事が家、又集落の単位で行われていました。
行事を行うときは、とりしきる人(家長や部落の長老)がいて、自然に尊敬する心が育てられました。人の死も家族の直前で行われた行事だったので、悲しみ、いたわりを自分の目で直視して、「死」のどうにもならないことを知り、「生きる」大切さがわかったのです。
現在はすべて分業化され、その一面しか見られなくなってしまいました。又、家族(兄弟)が多ければ、人間同志の様々なつき合い方をみることができます。
幼児は自分の見たり聞いたり、感じたことを自分の言葉で話したとき、他人はどういう顔をするか、どんなときに我慢しなければならないかを体得してきます。最近は幼児達にとって極めてそういう機会が少なくなってしまいました。
3.
私達はこれまで頭のよいことこそ、他に勝るものは無いと考え、子供に出来るだけのことをしてあげたい、何でも専門家に依頼すれば立派に育っと考え、塾へ通わせるなどしてきました。
その為、社会の教育環境は大きく変って来て、子供にとっては受難時代といえましょう。
また、人々は頭の良いということ人類の特権と思い、心よりも形に現れるものに価値を見い出し、お互い競い合ってきたようです。
その結果、20世紀の後半は、人類の生存を危うくするような武器の開発、エネルギーの消費や環境破壊などを行なってしまったのではないでしょうか。
4.
21世紀は、人類は競い合う時代ではなく、助け合い、楽しくしていくことだと考えます。今までの競い合う教育を進めたのでは、人類は破滅するとまで言われております。
幼児の生活は即ち遊びであります。幼児は自分に必要だと思うものを、自分に合わせて取り込む力を持っています。
遊びの中で、自ら生きて行く力を養っております。遊ぴがないと取り込む力を使わないで、自主性のない子供に育ってきます。
遊び場いっぱい、、友達いっぱいの幼稚園で精一杯遊んで、自分自身で生きる力を育んで欲しいと思っています。
幼稚園時代に心の中に培われた様々なことが、やがて成人して、豊かな人格形成という実を結ぴ、社会に大きく貢献できるようになるでしょう。そのような幼稚園でありたいと考えております。